昭和48年06月27日 秋永小夜子20年霊祭
何とも言えん、さわやかな霊祭でした。御霊様を、例えば偲んでという様な事は、神を信ずる信じない、魂ある無しという事は別にして、はぁほんに何年前亡くなって、あの時のことを思い出したり、色々とこう、これが偲ぶわけですけども、そんなもんじゃなくてね、あの神様を信じて、何事にも信心になれという、その信心が現われが、このお祭りであります。これが今日の私が感じ給う、こんな爽やかな霊祭て、初めてと言う感じの、爽やかな御用でしたね。
その爽やかと言う事は、あっさりしとるという意味ですから、ほんならこれにまた、こってりとしたと言うのは、また別ですよね。そこが分かっての、こってりと言うのは、また限りがないことです。今日御道の新聞を見せて頂いとりましたら、あの忘れえぬ思い出と言うのが、度々載って来よりますが、ある四国の先生がもう終戦直後に、日田の堀尾先生を講師として、高橋正雄先生もやはり出られた、教師会かなんかの青年教師会に、講演に見えた時のお話しが出ておりました。
ご承知のように教学派と、まぁいうなら神徳派と言った様な先生方ですから、その討論になって、説が二つに分かれた。そん時に堀尾先生が、もうそれこそもう決然として、席を蹴って立たれたね。そしてこう言う御用はごめん蒙るんだ。おら今からすぐ帰ると言って立ち上がられ、もう真っ青になって立たれたと。高橋先生をもう睨みつけて立たれたと言う事です。そしたらまたそれを、高橋先生が下からこう睨み上げといてからね。ここで御用が出来ない者がね。
日田に帰って何が御用が出来るかと。金光大神のおかげを頂かなければ、神様のおかげを頂かなければ、お引き回しを頂かなければ、御用に使うて貰えない者が日田に帰って、何が御用が出来るか、ここで御用が出来ん者は、と言われたらすぐ睨みつけて、一時考えておられた堀尾先生がね、にんまりと言うかにやっと笑うてから。あぁあ仕方がないと言うて座られたという。私はそれを読ませて頂いて、その何と言うかね、相照らすなかと言うか、もう本当に信心で繋がりを持っておるというか。
本当に神様のおかげを頂かなければ立ち行くことじゃない。自分が御用しておるとじゃない。神様に御用を使うてもらわなければ、御用にでも使うていただけることは出来ん事を信じきっておられる先生方の話です。もうそれがそん時の内容は忘れたけれども、その場面が今も忘れられないという話が、今日書いてありましたが。今日はその事をしきりに思うんです。ほんなら、今の例えば兄弟三人が、言うなら三夫婦それに今日は、ほんなら最後も来とります。
子供達も来とりますけども。例えてその三人の、あの先生文男さん嘉朗さん達、三夫婦がです。もう神様のおかげを頂かなければ出来ることではないんだと。と言う事をまぁ、いうなら信じ切っての、このお祭りそこにね、もう何ともかんとも言えん。いわゆるあの御霊様を偲んでと言った様な、じめじめしたようなものではなくてね。もう爽やかさこの上ないような感じの、爽やかな霊祭でしたね。
私は何事にも、信心になれよと言う事はね。そう言う事だと思うです。信心はしておってもどうもこの頃、秋山さんがあそこへ丁度、お参りしておられるが、まぁ二かいっか的な、お祭りをするけん、ついでに仕えてもらおうとかね。何とはなしに集まっても、こうお付き合い程度と言うか。例えば普通の一般にご法事なんかていうものは、特にそれがはっきりしてるけれども、まぁ年季じゃから坊さん呼んで、お経上げて貰わんならん。親戚なんかはそれに対して饅頭なっとん、餅なっとん搗いていかんならん。
いわば、お付き合いと言った様なものであって、それがほんなら生々しい、いうならば特に偲ばれる御霊様であるとするならば、ほんに御霊様は上げんじゃったけん、御霊様の好いてござるものなっとん、作ってと言った様な、そのそういう感じの霊祭になりがちなんですけどもね。いわゆるその神様を信ずると言う事ね。先日あの康子の一年祭を仕えさせてもらいましたが、もう親子の者が、まぁいうならあれが真心いっぱいと言うのでしょうか。この言うなら。
今日の爽やかさと言うのじゃなく、それこそこってりした霊祭でございましたが。そん時に頂きましたのが帰去来と言う、あの植物ですよね。あれを頂いた。帰去来と帰る去る来ると書いてある。例えばね御霊様が、あの世にお国替えをされると言う事は、あの世に帰られると言う事。いわゆる帰る去ると言う事。それがこうしてあの、生き生きとした御霊の働き、神様のおかげを頂いて、その帰去来いったり来たりが出来る。
今日はこのお祭りを来てから、頂いておると言わんばかりの、しかもその遺族の者の思いとか真心と言うものが、あのがめの葉ですね、あれにあれはあのイドラの葉とも言いますね。学名は帰去来と言うです。あのがめの葉と言うのがいわれる、饅頭を包むものであると言う事。饅頭と言う事は、万の寿と頂かんならんでしょう。一切のおかげと言う事でしょう。一切のおかげを包む所の、言うならおかげの受けものを作る所のね。
この世にあるものあの世のものが、こう合わせてねあの饅頭を包んでいくおかげを頂くことのための、だから霊祭なんかと言うものは、お祭りなんかでも、そうですけれども。しなければならないからするのでは無いというのではなくて、もうそれはね、もう何事にも、信心になれよと言う、それが自然と現れてくるのが、この霊祭です。しかも今日のなかに、その、妹なら妹立場からね、嘉朗さんのためには姉さんかね。
と言う子供達のためには、小母さんと言うですか、何かそのそういうそのそんなら、小母さんを偲ぶとか、妹を偲ぶとか、姉さんを偲ぶとかと言った様な、あの偲んでと言った様なね、じめじめしたのではない事ね。私はこれだとね、信心はいよいよこれを、もっともっと育って行く事だと思う。真心とはだから神様は信じて行う事が真心だと思う。御霊様の帰去来を信じて仕える霊祭が、真心を以って仕えると言う事になる訳ですよね。
どうぞ。